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記事2020.11.02

「その街」の社会学(新原道信)

写真:スペイン・アンダルシア地方にあるイギリスの「飛地」ジブラルタルの全景(スペイン側の税関前から)


「その街」の社会学

 

みなさんへ いつもありがとうございます。わたしが担当する都市と地域の社会学、そして実際に行っている“惑星社会のフィールドワーク(Exploring Fieldwork in the Planetary Society)”のもととなっている「その街」への関心について書きました。2020年8月15日にゼミ生にむけて送ったものです。ご笑覧いただければ幸いです。

 

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ゼミ生・卒業生のみなさんへ 

 

いつもならみなさんと合宿をしている時期だなと思いつつ、自宅で夏を過ごしています。本日は8月15日ですね。わたしの母親は、1927年8月15日に東京で生まれ、1945年3月10日の東京大空襲で「たまたま」10万人の死者の側に入らず、生き延び、わたしを生んでくれました。「8.9」の閃光を、長崎・川棚の特攻隊基地で目撃したわたしの父親は、特攻出撃するはずの10月の前に日本帝国が滅びたことで、「たまたま」生き延びました。わたしは、ずっと子供の頃から、自分の存在の不確かさ、「たまたま」生まれ、育っていることの不思議、「存在の傲慢」とでも言うべき感覚を持ち続けていました。

 「8.15」は、日本の近代化の問題――明治以降の「この国」「この社会」がどんな道を歩いてきてしまったのか、なにをしてしまったのかがむき出しになった日でした。わたしの恩師・真下信一先生は、「8.15」の意味を、演劇用語の「ペリペティア(舞台の大きな転換)」という言葉を使って表現されました。「ペリペティア(peripetia)」は、アリストテレス(Aristoteles)以来のドラマ作法の根本概念の一つで、劇作家のイプセン(Henrik Johan Ibsen)、ハンガリー・ブダペスト出身の哲学者・美学者ルカーチ(Szegedi Lukács György Bernát )も着目した概念でしたが、「主人公たちの頭と心のなかで『無知から知への急転』がそこで生じねばならないはずの『認識の場』であり、ドラマの窮極の意味が『そうであったのか!』というかたちで了解されるべきラスト・シーン」という意味合いを持っています。

  

いかなる事実にも、いかなる出来事の新しさにも、あたかも絶縁体でしかないようなファナティシズムを別とすれば、八・六と八・一五は目本のファシスト的戦争劇における最大のペリペティアであった。主人公たちの頭と心のなかで「無知から知への急転」がそこで生じねばならないはずの「認識の場」であり、ドラマの窮極の意味が「そうであったのか!」というかたちで了解されるべきラスト・シーンであった。もとギリシャ語のペリペテイアは、ことに、悪しき状態への、人間的災禍への急変という意味をもつものであるが、八・六と八・一五のパニック、自己をも含めてこの国民の最大の災禍をかかるものとして率直にみとめ、つづいて、「最後に」このような「結果としてあらわれ」たものが「客観的現実のなかにすでにとっくに存在」していたことを承認し、この確認にもとづいてあの「本質」をたぐりだし、その「本質」への自己のかかわり合いを明らかにしようとすること、このことが責任性の問題一般が生じうる必須の条件なのである。

「八・一五」をわれわれは見た。それは事柄の事実的経過のなかで「うわべのまやかし」が一枚一枚と剥ぎとられてゆくそのとどのつまりに、むき出しの「本質」としてあらがいがたく目前に横たわったものであった。それを各自が見たと思ったそのイメージを保ちながら、あの歴史的経過を逆にたどれば、数々の「うわべのまやかし」が、あたかもフィルムの逆回転のなかでのように、一枚一枚と各自のもつ「本質」のイメージの上へ戻されてゆく。この後からの積み戻しのなかでは、新しく暴露された諸事実の知識が加えられつつ、ひとは事実的経過のなかにかつて巻き込まれていたときよりも、はるかに聡明にふるまうことができる。「本質」のイメージは多少とも見直され、この見直された「本質」観が、かつての自己に対置される。それゆえに、各人の自己批判、自己責任の追及の仕方は、「本質」のそれぞれの見直し方に相対的であるよりほかはない。 (真下信一「思想者とファシズム」『真下信一著作集 第2巻』青木書店, 1979年,165-167ページ)

 

 この真下先生の言葉の「8.15」を、わたしたちは、「1.17」「9.11」「3.11」そして「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)」と置き換えることができます。COVID-19によって隠されていた矛盾(社会の根本問題)が可視化するプロセス、その“根本的瞬間(Grundmoment)”を私たちは目撃しています。社会的現実がいつどのようになにをきっかけとしてどのように顕在化していくのか、その瞬間を目撃することができています。「いま」から「過去」、そして、この先のより「崩壊」や「破綻」が顕(あら)わになった未来の「いま」から「歴史的経過を逆にたどれば、数々の『うわべのまやかし』が、あたかもフィルムの逆回転のなかでのように」「一枚一枚と剥ぎとられてゆく」はずです。

 ではいま、社会や自分の変化の諸相をことこまかに観察し記録・記憶し理解することの意味は何でしょうか。これまで目を向けてこなかった“生身の現実(realtà cruda, raw reality)”の存在に気付くこと。そしていま現在進行形で起こっている「ペリペティア」の体験を経験化することによって、たとえば、以下のような“時代への洞察力(visionary insight, intuizione visionaria)”がつくられていきます。 

 

これは私の友人から聞いた話だ。神田川沿いの並木道を歩きながら、藤田省三は学生たちに言った。「この場所はかつて『瓦礫』の山だったんです。君たちには見えますか。未来の『瓦礫』が」。この政治学者と同じく、「汚辱の一九三〇年代」を身体に刻み込まざるを得なかった私の哲学の恩師たちからも、ほぼ同じ文脈で「瓦礫」という言葉が発せられたことをいま想い起こす。

 

 将来ある若者が、1930年代に戦争へと総動員されるしかなかったように、あるいは1960年代、70年代に、「成長」へと吞み込まれていったように、さらにはいま、「不安」「不満」と“「壁」の増殖(proliferation of 'barrier')”に組み込まれていくように、私たちは、「時代の空気」に翻弄される存在です。しかし、そのなかでも、他者を信じることに絶望せず、「客観的現実のなかにすでにとっくに存在」する“生身の現実”を「たぐりだ」そうと自分からうごき、「積み戻し」をしようとしていくことで、すこしだけ「聡明」になる道が開けるはずです。

 わたしは、都市や地域を専門とする社会学者ということになっています。おそらくわたしが“識り”たかったのは、母や父にとっての「その街(the city, the street, the alley, the passage, the square, the townscape)」の意味なのだと、「コロナウイルス」により「わが街」が変化していくなかで分かってきました。

 

わたしの母が、生まれ育った浅草を、夫に付き添われて訪れたのは、「あの日の空襲」から、60年以上も後のことだった。失われた「その街」を想いつつ、ふれないよう、考えないよう、とまどい、逡巡し、痛切のなか、どうにかやっと、それでも生きているうちに一度「帰ろう」と思い立ったときには、「あの日」をかろうじて生きのびた同級生たちの、すでに多くが亡くなっていた。

 

わたしの父は、戦後40年ほど経た後に、「その街」を再訪した。自分の祖父も建設にかかわった大講堂や市庁舎が、まだそのまま残っていたと喜んだ。しかし、あの頃の「その街」はそこにはなかった。日本帝国下につくられた日本人街や自分の父親が勤めた貿易会社は、日本帝国の瓦解とともに消滅した。“異郷/異境”の地である「祖国」に特攻隊員として「帰還」し、たまたま生き延びた後、亡くなるまでに、「その街」を語ったのは、一度きりのことだった。

 

 ここでは、「その街」に暮らしたひとたちは、徹底的な喪失(thorough lost)を体験しています。いま私たちの世界が、いながらにして“異郷/異教/異境(terra estranea/pagania/confini estranei, foreign land/pagandom/ extraneous borders)”となりゆくなかで、「その街」の“考故学("perdutologia", Sociological(anthropological) caring for the lost)”[1]は、とりわけ意味を持ち、力を発揮するものだと考えます。

 自分で考え、言葉にしても、「あまり意味がないので」などと言わず、自分のなかに在るものに、生きる場所を与えてあげてください。連綿とつづく、致命的な喪失の歴史のなかで、たしかに在った「その街」を“すくい(掬い/救い)とり、くみとる(scoop up/out, scavare, salvare, comprendere)”という試みの「かぼそい糸」こそが、ひとの想いをつないできてくれた、つないでいくのだと想います。みなさんの無事を祈りつつ。

 

    2020年8月15日 新たな「ペリペティア」のなかで 新原道信拝

 

生まれはしたものの消されるはずであったものたち

あらかじめ、そのように不幸なおもいをするくらいならと、

発せられることもないままに押し込められているべきだった存在

心のひだの片隅、粘膜の間にあるフィヨルドの奥底に、

こびりつくようにして沈殿した澱にしかならなかったはずのもの

そのようなものたち、鬼子たち、生まれ来るはずもなかった子供たち、

奥底の溶岩の塊に生きる場所が与えられるということ

 

言葉がほとばしり出る瞬間と場所

一見すると錯乱にしか見えない言葉たち

投げ出された、断片、かけら

言葉につまりつつ、ためらいつつ、言いよどみつつ、言葉がほとばしり出る瞬間

想念はシステムを食い破り、粘土のごとき、土塊の固まりの中から、声でも言葉でも沈黙でもなく、

みずからの力によってつらなり、声を発した者の予想だにしなかった像を練り上げていく

内奥にある力、つらなる力、ねりあげる力、背後にある想起(アナムネーシス)

 

[1] 考現学と考古学、さらには故旧、故郷、縁故、故事、事故、故人など、喪失の“痛み/傷み/悼みとともにあるひと(homines patientes)”の“社会的痛苦/痛み(doloris ex societas/patientiae, pain on society/patience)”を引き受け探求する学問。

この記事を書いた人
新原 道信
Michinobu Niihara

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