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いまこそ大学で何を学ぶか(天田城介)
※以下、天田城介.2015.「いまこそ大学で何を学ぶか」『草のみどり』(中央大学父母連絡会機関誌)第288号(2015年8月発行)「指標」より転載しております。なお、校正時に加筆修正を施してありますので、掲載された文章と以下の文章は多少異なります。ご理解のほどどうぞ宜しくお願い致します。
◆いまこそ大学で何を学ぶか
中央大学文学部教授
天田城介(あまだ・じょうすけ)
近年、ほんの20年前には全く予想だにしなかった出来事を現在の大学は経験している。文部科学省の号令一下、グローバル化、実学志向化、研究高度化、大学認証評価の強化、情報公開・説明責任の徹底化など各種の変革を余儀なくされている。誰のための、何のための改革か不明のまま事が進んでいる。しかしながら、こうした時代からこそ、私たちは立ち止まって「大学とは何か」「大学で何をいかに学ぶか」を冷静かつ大胆に考えるべきだと思う。
かつて浅羽通明は『大学で何を学ぶか』(幻冬舎、1996年)において、大学で学生が勉強しないのも教員が浮世離れの講義をするのも、それで十分「社会は回る」からして当然であると喝破した。企業が学生に求めるのは、企業内教育を適切に消化吸収できる基礎能力の目安の一つとなる入学試験の学力に加え、何よりも「○○大学」という「世間」(特に各大学OBOG「世間」の強さ)であるからして、大学でなまじっか学ぶものはないと論じたのだ。
就職活動も企業や社会が大学に求める人材もこの“失われた20年”で劇的に変わったが、「大学とは何か」「大学で何をいかに学ぶか」に対する回答は宙吊り状態のままだ。浅羽はそんな状況でも学問を学ばんとする学生は、自らが少数派として自覚しつつ、「世間」ならざる社会を生きる上でかろうじて参照することのできる「教養」を学ぶことの意味を説いた。「教養」とは自分が帰属する「世間」における知識や生き方では立ち行かない事態においてこそ、それまで磨き上げた人びとが生存・生活のさなかで参照することができるものなのだ。
では、「教養」は「緊急事態」の備えなのか。そうでもないだろう。「世間」を生きることは私たちの生存・生活を安定させる一方で、ひどく抑圧的であり排他的でもある。そんな社会にあって「自由に生きるために教養」はまさに学問の世界から解き放たれて受け止められるものであろう。中央大学の建学の精神である「實地應用ノ素ヲ養フ」とは、まさに「社会を自由に生きるための知(教養)と行(実践)の技法」を指し示していると思う。
◆プロフィール
埼玉県出身。立教大学大学院社会学研究科修了。博士(社会学)。専門は臨床社会学、歴史社会学など。
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