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AIにふれる(鈴木恭子)
昨年4月に中央大学に着任して以降、学生のAI使用への対応に多くの時間を割いた。AIの使用を厳しく禁じる局面もあれば、いかに活用するかを教えるときもある。評価においては、AIを使わず真面目に取り組む学生が不利になるのを防ぎたい。だがそうした理由に加えてもっと直感的に、自分は学生がAIを使うことになにか不穏なものを感じているらしい。
率直にいって、躊躇なくAIを使う学生が予想よりはるかに多いことに驚いた。私は大学生にあれこれ指示したり禁止することは好きではない。大学生はもう大人なのだから、何をどのように勉強するかは本人が考えることだ。だが、AIを使う学生をみるとつい、自分の能力を鍛えて伸ばすべき時にその機会を明け渡してどうするのか、と思ってしまう。日本の大学教育は、ただでさえ自分で、読んだり・書いたり・考えたりする機会が少ない。それをAIに任せてしまったら、大学での学びに何が残るのか。仕事がAIに取って代わられていく世の中で、何を強みにして生きていくつもりかと心配になる。
一方、これも大学に来て驚いたことだが、AIをあまり使わない学生もいる。そのことは、書かれたものや、学生の様子から感じる。彼らは、スキルが高いからAIが不要という訳ではない。彼らは、自分にいま何ができるかに関わらず、時間と労力を厭わず、自分で読み、書き、考えることを好むようにみえる。となれば、社会学者として頭に浮かぶのは、誰がAIを使い、誰が使わないのか、という問いだ。この現象はランダムに生じているのか、それとも社会の構造に関連したパターンがあるのか。
歴史を振り返れば、大学教育の拡大やIT革命といった、社会をより公平で平等にしうる可能性をもった変化が、結局はそうした期待を裏切って、既存の階層構造の再生産と格差の一層の拡大に帰結してきた側面がある。AIという、人間の可能性を飛躍的に高めるかにみえる技術革新も、そうした道をたどるのではないかという疑いが、私がAIに対して感じる「不穏さ」のもとであるように思う。
巷では、AIを使いこなせないと時流に乗り遅れるかのような言説があふれる。そうだろうか。私はむしろ、皆がAIに頼る社会では、どこかAIから独立しえた者が有利になるような気がする。その方が自らの能力を伸ばす機会に恵まれ、そうした能力の希少性も高まると思うからだ。もっともこの「能力」がどんなものかは未知であり、もしかすると自力で読んだり・書いたり・考えたりするのが「知性」であるという伝統的な能力観からは自由になるべきなのかもしれない。ともあれ、皆がAIを使う中であえてAIを使わない人々は、なぜそうした行動をとれるのだろうか――。あるいは彼らは、単にその方が楽しいと思えるのかもしれない。いずれにしても、そうした「選好」のようなものも含め、皆がAIを使う時代に距離をおく選択をするには、ある種の「資源」を要するのかもしれない。そうだとすれば、それが社会構造とどのように関連しているかは気になるところだ。
AIを使う学生は、みずからの戦略としてAIを使うことを選んでいる、と自分では感じているはずだ。だがこの選択は、ほんとうの意味で自由か。ブルデューによると、人は「この場ではこういうふうに振る舞うべきだ」という感覚を持つという。ある状況でAIを使うかというごく自然で個人的な選択、あるいは「選好」のようなものは、私たちが幼い頃からどのような文化にさらされてきたかに規定されている。自分のやることなすこと、自分で選んでいるつもりが実は社会に決められているというのが、社会学の見方のひとつだ。それは、個人の運命があらかじめ決定されているということではない。むしろ、まるでその逆だ。個人には、生まれながらにして持つ長所や得意なものがあるのだろう。しかし、個人が放り込まれる環境の既定力があまりに強いため、そこから距離をおいて静かに耳をすまさなければ、自分は何が好きで何が得意なのかに気づくことさえ難しいのだ。
ギデンズが言うように、私たちは社会構造の中で行為するとき、その構造を再生産する。ある状況でAIを使うのが合理的と考えそれを選択する時、私たちは自分がその一部である社会構造の再生産に加担している。その時、私たちは自分のおかれた環境が命じる「自然」に、どのように抗うことができるのか――。そこには個人のエージェンシーの発動が必要だ、と社会学は告げる。自分にとってAIを使うのが自然で合理的に思える時、少し立ち止まって耳を澄まし、あえてそうではない選択をしてみること。そうした行為に自らをひらくことは、社会が命じる「自然」に抵抗し、やがてはそれを変えることにもつながるかもしれない。そのように信じるのが社会学ではないだろうか。
はたして大学教育は、個人と社会に、そのような楔(くさび)を打ち込むことができるのか。自分のできることとできないことに時間をかけて向かい合うことの意味や楽しさを、伝えることができるだろうか。そうしたことを考えさせられる一年であった。
初出:鈴木恭子「AIにふれる」『中央社会学』第35号、中央大学社会学会、2026年、212-213頁
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