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記事2026.05.11

アンチ社会学の社会学者としてⅡ ——集合意識という虚数(首藤明和)

 社会学ではよく「常識を疑う」ことが社会学の特徴として自画自賛される。大学生の頃からわたしは騙されてきたのだが、今となってはむしろ「社会学を疑う」ことこそが社会学を学ぶうえでのはじめの一歩だと確信している。

 一例をあげよう。わたしたちは、他者の意識へ直接コミットすることなどできない。意識とコミットすることはできないのである。ただ、テーマとして掲げた意識についてコミュニケートすることはできる。意識についてコミュニケーションできるだけなのである(ルーマン 1990 = 2009:9)。また、自己の意識でさえも、その制御は至難の業だ。思考や感覚(直観的想像力)の奔放さ、感情の起伏、知覚の虚実など、錯誤や錯覚、無知、無自覚などがあたりまえの意識を、必ずしも因果律などから意味適合的に説明し理解できるわけではない。

 意識とは、思考、感情、意志、知覚、感覚、記憶などの作動であるが、21世紀の科学でも依然として宇宙とならぶ最奥の未知にある。にもかかわらず伝統的に社会学では、定義の定まらない意識概念と関連させて、社会とは何かを説明してきたものが多い。

 たとえばエミール・デュルケムは、その「社会学的方法の規準」において、個人の外から個人の行動や考え方を拘束する、集団や全体社会に共有された行動や思考の様式――「集合意識」あるいは「集合表象」としての「社会的事実」――を社会とみなし、それを社会学に独自の分析対象とした。個人を超越した道徳や慣習といった集合意識として、社会は外在的に実在する。社会は、それ自身で固有の規則をもった「物」であり、個人の外部から研究しなければならない対象だという。

 社会と同義とされた集合意識は直接コミットできない。そこでデュルケムは、集合意識の外部的標識=集合表象をテーマに掲げ、社会についてコミュニケートする。そこで選ばれた集合表象は、アノミーや、機械的連帯における抑止法、有機的連帯における復原法などであった。

 しかし、たとえばアノミーを選ぶ必然性はどこにもないし、ましてやそうした方法が、社会を包括的に説明するわけでもない。デュルケム自身、アノミーを選択する理由や、そのことで社会の何が説明でき何が説明できないのか、自身の視点に言及してその射程の範囲と限界を明確にはしていない。

 その後の社会学は、事態をさらにややこしくしている。タルコット・パーソンズは、創発特性という想像的構成物(虚数)を投入して、集合意識と行為とを架橋しようとした。この創発特性が持ち込む〈価値〉がまたややこしい。そもそも創発特性とは、「フランスはフランス人より上位にある存在」であり、「フランス人という自由な諸個人には決して還元しえない何ものかとしてのフランス」であると信じた、デュルケム、マルセル・モース、レヴィ=ストロースなど、フランス社会学派に好まれた概念である。それは、「自由な諸個人の主観的な意志の民主的な総和である全体意志に抗して、自由な諸個人の主観的な意志の総和には決して還元されえない、その上位あるいは深層に存在する一般意志への結集」を表した概念であった(落合 2022: 3, 6)。

 創発特性には政治的な価値が含まれる。自らの価値を守るため、創発特性の魅力を解さないものをあらかじめ排除したり、何が起ころうと抗事実的な記述を通じて、それ自身の価値を守ろうとしたりする力をもつ。

 後世の社会学者は、デュルケムの社会理論を「方法論的全体主義」と呼ぶ。しかしわたしには、曖昧な意識概念を用いて社会を社会から記述することを回避した、一つの優れた民族誌として目に映る。

 今日の社会学では、「常識を疑う」力を持つという過信とともに、社会学は他の社会科学や、ましてや自然科学とは異なる、自然言語や生活世界に根ざした「『非サイエンス』的な知の居場所」(筒井 2021)だとする、奇妙な言説が両立している。

 まさしく観察は観察されなければならない。いったいなぜこのような記述が可能になるのか、その観察を観察しなければならない。なぜそれが、社会学の正統な学説や、正当な評価関数として観察されるのかを、別の観察に晒さなければならない。

 今日の〈理論〉には、オートロジカル(自己論理的)に、観察の条件をその観察の結果によって問うことが求められる。熱力学のもたらした、観察者自身を包含する新しい認識論以降、〈理論〉は例外なく、物理学から生物学、神経生理学、心理学、言語学、社会学にいたるまで、観察が可能になるための条件について、それぞれの専門性をもって記述するよう迫られている(ルーマン 1990 = 2009:ⅳ-ⅴ)。

 「社会学は常識を疑う」。このフレーズを目にするたびに、たとえば曖昧な意識概念から社会を記述する既成の社会学理論の数々について、苦々しく思い、ときには自嘲せずにはおれない。社会学が〈社会の理論〉として存続していくための作業は、緒についたばかりだ。


参考文献

落合仁司,2022,『社会的事実の数理』勁草書房.

筒井淳也,2021,『社会学』岩波書店.

ニクラス・ルーマン(徳安彰訳),1990=2009,『社会の科学1』法政大学出版局.



初出:首藤明和「アンチ社会学の社会学者としてⅡ ——集合意識という虚数」『中央社会学』第35号、中央大学社会学会、2026年、210-211頁  

この記事を書いた人
首藤 明和
Toshikazu Shuto

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