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記事2020.07.30

「老い」を見つめる社会学の視点(天田城介)

※以下、天田城介.2017.「「老い」を見つめる社会学の視点」『草のみどり』(中央大学父母連絡会機関誌)第304号(2017年11月1日発行):24-27より転載しております。直接ご覧になりたい場合には以下のPDFをご参照ください。


◇天田城介.2017.「「老い」を見つめる社会学の視点」『草のみどり』(中央大学父母連絡会機関誌)第304号(2017年11月1日発行):24-27



■『草のみどり』(中央大学父母連絡会機関誌)第304号(2017年11月1日発行):24-27

中央大学教員に研究のアレコレを聞くインタビューシリーズ「まるちあんぐる」Vol.4


◆「老い」を見つめる社会学の視点


 文学部 教授 天田城介


◇天田先生のご専門を教えてください


 専門は、「社会学」です。あえて言うならば、「福祉社会学」「医療社会学」と呼ばれる分野になります。研究のキーワードとなるのは、「老い」と「格差」です。現代の日本が抱える二つの大きな課題が折り重なるところを「社会学」というスコープで見て、何らかの解決策を構想するのが私の社会学的使命だと考えています。

 研究では、主に二つのアプローチ・方法で社会を見つめます。

 一つは、「マクロの視点」。具体的には、「老い」を支える制度はどのようにでき上がってきたのか? といった歴史に着目します。今日の社会が成立した理由を大きな歴史の積み重ねに求めるわけです。これは、「歴史社会学」の手法だと言えます。

 もう一つは、「ミクロの視点」。こちらは、社会の現場に分け入って、現実をフォーカスしていく作業です。

 たとえば、認知症の親を支える家族が抱える困難とは? 年金月額6万円で50代の無職シングル息子を養う70代女性が直面する貧困とは? こうしたミクロな現実にしっかりと目を向け、自分に何ができるのかを考えます。こちらは、「臨床社会学」の手法と言えるでしょう。

 私たちの目の前の現実がどのように生み出されるのか、正確に把握するためには「ミクロ」「マクロ」両方の視点が必要です。年金6万円で暮らす貧困世帯を見て、なぜ貯金をしなかったのか、なぜ働かないのか……と責めることは簡単です。しかし、年金制度を取り巻く歴史を丁寧に見つめていくと決して個人が原因ではないことが見えてきます。貯金できなかった理由や働けない理由のなかに歴史的な構造が見えることもあるのです。


◇先生は特に「老い」の問題と向き合ってきたと伺っています


 私自身、実家で認知症を抱えていた祖母のケアを10年以上してきた経験があります。それが、「社会学」の研究者をめざした根っこ(ルーツ)の一つだと言えます。

 たとえば、社会学の「ミクロの視点」で「老い」の現場を見るとこうなります。人はオギャーと生まれてから、さまざまな経験をして、今日を迎えます。その過程で、高齢者は昔できたことができなくなってくる。つまり、「できる人」から「できない人」になっていくのが「老い」の実態です。社会学的に見れば、「老い」とは、「かつてできた私」という自己イメージ(理想)と「今はできなくなってしまった」という現実の「ギャップ問題」なのです。何かしようとしてもすぐに忘れてしまう――。加えて、認知症の本人は、当然葛藤します。その苦悩を受け止めてくれるはずの家族に不協和音が響くことで、本人の動揺はさらに大きくなります。

 たとえば、よくある話ですが、認知症の高齢女性が忘れっぽくなったことで、心配のあまり自分の財布を隠すようになる。財布は拠り所ですからね。ただ、本人は隠したこと自体を忘れてしまう。仕方なく、家族総出で探すとタンスの奥や畳の下から出てくる。そして、「またこんなところに隠して!」と家族に怒鳴られるけれど、この怒られたこと自体を忘れてしまう。すると、「私はバカになってしまった」という自己否定感だけが残ってしまうのです。

私の実家もそうでしたが、支える家族のほうもどんどん穏やかさを失っていくのが介護現場の現実です。


◇そこに解決策はあるのでしょうか?


 少しでも「ギャップを埋める」ことが何よりの処方せんになります。認知症の当事者は、物忘れがひどくなったことで、「私はダメになってしまった」とプライドがズタズタに引き裂かれています。これこそがもともとの根にある原因です。そこで、たとえば料理が得

意な人なら、「もう火は使わないで!」とやみくもに遠ざけるのではなく、一緒にいるときは少しでも手伝ってもらうことが大切です。昔できたことが今でもできる―。役割をもらえたことで、本人は生き生きとしてくるのです。


◇確かに、介護の現場では見落としがちな視点かもしれません


 認知症当事者のケアの現場を見ているとさまざまなものが見えてきます。大切なのは、やはり当たり前のことですが、人間として生きることだと痛感します。

 介護施設で会った、軽度の認知症当事者の方のこんな事例もあります。その方は、「何かしたい?」と聞いても最初は何も答えなかった。でも寄り沿ってよくよく聞いてみると、「『さとうパン』のパンを食べたい」と言うのです。聞けば、昔よく食べた近所のお店だとのこと。そこで、一緒にパンを買いに行って食べてもらうと、今度は「大福を食べたい」「お祭りに行きたい」と次から次へと希望が出てくるようになったのです。問題なのは、「パンを食べたい」というささやかな希望さえ叶わないと思う場所にいたこと。「おいしいパンを食べた」という何でもない経験が、「アレもコレもできない」と過去を向いてばかりだった意識のベクトルを未来に向け直したわけです。「ギャップを埋める」という社会的発想は、社会学が「ミクロの視点」で探し当てた解決策の一例と言えるでしょう。


◇「マクロの視点」で「老い」の問題を見つめるとどうなりますか?


 言うまでもなく、認知症当事者を支えるには、社会的支援が圧倒的に足りないという大きな課題があります。「老い」を迎えた高齢者を現場で十分に支える受け皿はまだまだ少ないのが実状です。では、戦後の日本社会はどのように高齢者を何とか支えてきたのでしょか。そこにあったのは、十分な社会保障でも優れた政策でもなく、「高度経済成長」という時代の流れでした。

 戦後、地方に住む高齢者の貧困が社会問題化するのが、1950年代後半です。団塊世代が集団就職で都市部に流入していたころです。1963年に「老人福祉法」が施行され、田中角栄が1970年に「福祉元年」を提唱した後の1973年には、老人医療費無料化を実現します。ここから、地方の病院は高齢者の「ケアの受け皿」になっていくことになるのです。その後、1980年代に多くの高齢者が年金を受け取る時代となり、2000年代に入ると介護保険制度がスタートします。

 この歴史的な流れを見ていくと「現在」がどんな時代なのか少し見えてきます。経済成長時代は、都市に出た若者が稼いで地方の高齢者を支えるという所得の「世代間再分配」「地域間再分配」が成立していました。しかし、ポスト経済成長時代の現在はどうでしょう。若い世代に高齢者を支えるほどの収入がない。公共事業や地方交付金などを通して政府も地方に分配する財源がない。挙げ句の果てには、社会保障制度も機能不全を起こしている……。もう戦後日本の所得再分配システムが機能していないのは、明らかなのです。では、どうすればいいのか?

 それを考えるのが社会学の「マクロの視点」の役割だと思うのです。


◇こう聞くと解決策が気になります


 キーワードになるのは、やはり「格差の是正」と「所得の再分配」です。累進課税率や相続税率をはじめ税率構造の再構築や所得保障制度の拡充など具体策はいろいろありますが、弥縫策ではなく、社会設計そのものを問い直すべきなのです。

 私がゼミ生とともに挑んでいるテーマは、要するに、「ポスト経済成長時代の超高齢社会・人口減少社会における再分配を実現するミクロ・マクロ視点からの社会構想」です。ここには、経済学、政治学、心理学、哲学など、幅広い学問の知見が求められます。多彩な学びに触れながら、社会学的な視点を磨いてほしいと思っています。


◇先生のゼミの学生たちは、どのような研究に取り組んでいますか?


 私のゼミでは、フィールドワークに力を入れています。現場に立ちつつミクロとマクロの視点を鍛えるのです。これまで、大阪の釜ヶ崎、横浜の寿町、東京の山谷といった、いわゆる「ドヤ街」とかつて呼ばれた場所を訪れ、そこに暮らす人々の話を聞きました。今年は、生活困窮者支援を実践する北九州のNPO法人抱樸や社会福祉法人グリーンコープという団体に協力してもらって、北九州市や福岡市を訪れました。加えて、1963年に炭塵爆発という戦後最悪とも呼ばれる大事故を経験した三井三池炭鉱を訪問し、その炭塵爆発の被害者家族である松尾蕙虹さんにお話を聞かせていただきました。そんな現実としっかり向き合い、考えてほしいのです。


◇フィールドワークを通じて、学生たちが変わったと思うところは?


 フィールドワークの実施にあたって、私はできるだけ細かい指示はしません。すると学生たちは、各5名くらいのグループをつくって、事前に自主ゼミのようなことをはじめ、自主的に学び始めます。私は学びの点では学生に全幅の信頼を置いています。


◇最後に中央大学生のご父母へのメッセージをお願いします


 ある研究者の言葉を借りれば、社会学とは「翼を与えてくれる学問」です。人は誰でも社会の仕組みのもと縛られて生きています。しかし、その仕組みのメカニズムやそれができた背景や歴史を知ることで、自分の世界の狭さに気づき、別の生き方ができることもあるのです。

 と同時に、社会学とは、「自分の根っこを自覚する学問」でもあります。身の回りの現実を深く観察し、その歴史をたどることは、自分の根っこ(ルーツ)を確認することにもつながるでしょう。私にとって、学問とは、「自分の言葉を獲得するもの」。社会学という「新しい言葉」を持つことで、現代の諸課題と真剣に向き合い、新たに社会を構想・想像できる

ようになってほしいと願っています。


Profile

天田城介。立教大学大学院社会学研究科社会学専攻博士課程修了後、日本学術振興会特別研究員、立教大学社会学部助手、熊本学園大学社会福祉学部助教授、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授などを経て、2015 年より現職。


この記事を書いた人
天田 城介
Josuke Amada

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