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記事2025.06.16

社会の今と未来(野宮大志郎)

 1990年代の頭、私が研究トレーニングを受けたアメリカの大学から教授が来日した。旧知の間柄である。仕事の合間に何度か会い、話が弾んだ。彼の専攻は経済社会学。当然日本経済の興隆と翳りに興味を持っていた。当時日本経済は、今でいう「失われた30年」に入っていただろうか。その時の彼の指摘を今でもよく覚えている。データを見ると、日本では起業が極端に少ないという。彼は続ける。このままでいくと、日本経済は回復どころかますます活気を無くしてしまう、と。果たして、彼の指摘通りになった。日本はその「失われた30年」から今日でも抜け出していない。戦後、進取の気性で新しいものを創り出していった日本人は、どこにいったのか。

 この「失われた…」を担ってきた人たちは、今日の日本の高等教育にて産出されている。大学内を見渡せばすぐわかるのだが、学生は大企業への就職や公務員を目指してひた走る。すでに確立された安定的な社会組織の中で生きることを目指すのである。大学側も、卒業生の就職先や輩出した公務員の数をパンフレットで誇示する。今日、日本の大学生の間は、新しいものの創造よりも、すでにあるものへの適応に関心が集まるのだ。

 私のことを棚に上げて話すのだが、社会学の教育もその一翼を担う。日本の社会学教育では、社会が抱える問題を分析することを教える。学生はそれを習得するが、残念なことに、多くの学生は、その習得した技能を新しいサービスの考案や新規の社会的な仕組み創りに活かそうというオリエンテーションがないまま卒業する。自戒でもあるが、社会の分析の仕方の習得以上に、将来に向けて、どのような創造的な自己投企をすべきかについて、目を輝かせて教壇で語る教員がどれだけいるだろうか。大学は、未来社会の創造や、その創造に向けて船を漕ぎ出す気概を学生に伝える場所ではなくなっている。

 未来に向かわずに現在に回帰する社会学の姿は、別の社会的事案からも観察できる。社会学者は、阪神淡路・東日本大震災そして原発事故などの度に、コミュニティの崩壊を指摘し、地域社会の消失を指摘する。そしてその次に「復興」・「再生」を唱える。つまり、元に戻すこと=回帰が第一義的に重要なのである。もちろん、回帰が悪いと言っているわけではない。重要で、必要なことである。しかし、ここでのポイントは、失われた生活や崩壊に直面するコミュニティの「再生」が声高に叫ばれる一方で、新しい社会の創出という言葉が聞こえないないことなのである。社会の大きな崩壊は、新しい社会の創造のチャンスでもありうる。

 さらに別の例を出そう。今日、社会学において未来を論じる研究は、ほぼ間違いなく「現在」の延長線上に未来があるとするロジックの上に立つ。例えばインターネットが普及し始めると、「ネット社会」が未来予測として登場する。このやり方は、かつて、社会学の始祖であるコント、スペンサーそしてマルクスが未来社会を論じる論じ方とは大きく異なる。「現状から未来を予測」する思考では、未来は創造されたものではなく、現在の映し絵にしかならない。過去を現在に「復旧」し、未来を現在の姿の近似像として描く今日の社会学が、いかに現在に固執するか、了解できるだろうか。

 社会の現状に直面して、将来に向けて新しい社会を創り出すというメンタリティを持つ学問はどこにあるのか。こんなことをここ十数年考えてきた。そして最近、未来社会の創生に、我々現在人に同席して「未来人」にも参画させる、ということを旨とする学問に出会った。ただし、「未来人」は今ここにはいない。今ここで行う未来の議論について、「未来人」をどうやって参画させることができるだろうか。まさか、霊媒師でも呼び未来人を降臨させるのか、と訝しがられるだろう。しかし、この議論は、今日の学問界で大きな渦を巻き、真剣に議論されている。

 私は、この眉唾モノの議論に大いに興奮している。考えてほしい。今の現状の延長できる未来社会と、未来人がこんな未来にしてほしいと考えそこに向けて創り出す未来社会とでは、どちらの社会の方がより良い社会になりそうだろか。


初出:野宮大志郎「社会の今と未来」『中央社会学』第34号、中央大学社会学会、2025年、170-171頁

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