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アンチ社会学の社会学者として(首藤明和)
〈今〉を生きることは、いつでも〈過去〉と〈未来〉と隣り合わせである。〈現時点〉にて、〈過去〉の何を想起し、何を忘却するかが、どのような〈未来〉を惹起するかに続いていく。それゆえ〈現時点〉には、非同時的な〈過去〉と〈未来〉が同時化する矛盾がある。
生きることは矛盾に満ちている。その最たるものに、自己意識が再帰的に構成する時間の存在があるわけだ。それは物理学が説明する〈時間の存在しない世界〉――優劣も前後もない対称的な物質世界において、時間は存在しない。時間とは、人間が意識のなかで構成するものである。時間があたかも連続的に流れているかのようにみえるのは、たまたまわたしたちが、エントロピー増大を宇宙の法則として捉え、それにかかわっているからである。そもそも古典力学で時間は説明しない。量子論でも、粒子の非可換性という性質だけが、かろうじて意識が構成した時間に寄り添っている――とは決定的に異なるのである。
それゆえに社会とは時間であるともいえる。
社会学に内在する課題は多い。統計的代表性と分析的代表性の区別ができない社会学。ミクロやマクロなどとして構築された分析的リアリティを、社会学が考察すべき社会だと思いこんでいる社会学。認識論や存在論の方法論的基礎もないなかで、単なる分析のためのフレームが理論として正当化され権威づけられている社会学。そうした学説を唱えること、学ぶことに汲々とする社会学専攻の教員と学生たち。
すなわち社会学は、〈客観的〉な科学であろうとして社会学自身の拠って立つ方法論(存在論や認識論)を狭く限定的に捉えてきたのだろう。なぜならそのことによって、そもそも任意の値を与えられない社会の〈うごき〉を無理に定位化することができるからである。こうした一連の作業をもって、社会学は、社会にたいする説明や理解と称してきたのではないだろうか。
たとえば、因果関係に組み込まれることのない〈うごき〉が構成する〈社会なるもの〉を、社会学はどこまで追求してきたのだろうか。残念ながら、古典的社会学から今日の社会学に至るまで、その知性の作用とは、主体/客体、個人/社会、部分/全体、ミクロ/マクロ、質的/量的、個人/相互行為/社会運動/集団・組織/制度、内/外、上/下など、これらのフレーミングを安易に理論や方法と称することで、あるいは経験科学の名の下に存在論や認識論にかかわる議論を省略することで、外から対象を定めて変数を抽出、コントロールし、単に研究者の視点で構成されたに過ぎない時空間スケールのなかで、〈因果的〉に説明し理解してきたのではないだろうか。
社会学の根底にある古典力学的な考え方、たとえば始点や条件を定めれば、一定の運動や変化を経て推定される地点へ一律的にたどり着くといったような思考回路を打破するのは、たやすいことではない。
それゆえ、近代科学を牛耳ってきた古典力学的方法とは対置される見方(モデル)や考え方(理論)に目を向ける必要があるだろう。その一例として、オートポイエーシスに基づくシステム理論や、量子論などを、参照してみるのもよいかもしれない。オートポイエーシスは、ヒューマニズムや理性など人間中心主義の狭隘な〈ロゴス的知性〉の下で世界を描きつづけてきた学問にたいして、距離を置くことを促してくれるだろう。量子論は、社会学のように対象のコントロールを通して構築した分析的リアリティをリアリティとして描くのではなく、徹底した自然主義的リアリズムのなかで定位化できない〈うごき〉そのものをリアリティとして捉えることに、眼を見開かせてくれるだろう。
社会学は、自ら問いを立て、自らデータを集め、自分自身の答えを探し求め、このことに基づき議論することを尊ぶ学問のはずだ。社会科学のなかでも、あらかじめ人間モデルが定式化されており――人間の自己意識そのものが最大の謎のひとつであるにもかかわらず!――、それゆえその後の抽象的な議論が可能になっている政治学や経済学とは、社会学は根本から異なるはずである。たとえば、政治学は、ホッブスらの統制的理性を重視した〈人間性〉モデルの下で権力を対象とし、経済学は、ベンサムらの功利主義的な〈ホモ・エコノミクス〉モデルの下で市場を対象としているように、その学問の成り立ちが、学問の外につくり出された対象と結びつき、取り組むべき課題があらかじめ、あたかも〈客観的〉に準備されている。一方、社会学は、対象そのものを問題として見つけなければならない。しかも社会そのもののなかに、である。
社会学は、その社会のなかにある以上、探し求められた答えが到達点になることはない。解決されたと思われた問題は、むしろ新たに、より複雑な問題の起点になる。そうした自己論理性や自己再帰性を、社会学理論は備えているし、そうでなければならない。したがって社会学は、オープンエンドに考え続けることになるし、評価関数が一定に定まることもない。
社会学は、人間が依存する〈社会なるもの〉をつかみ出す。社会学を通してわたしたちは、本来的に定位化できない〈うごき〉に触れ、感じ、捉えることで、自己意識が構成する時間=社会のくびきを、人間のつくり出した〈人間苦〉=矛盾に満ちた人生を、説明する。そして自らを解き放つ。そうした学問だと、わたしは信じている。
初出:首藤明和「アンチ社会学の社会学者として」『中央社会学』第34号、中央大学社会学会、2025年、166-167頁
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