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「日常」の作られ方(野宮大志郎)
ウクライナ、ガザ地区、能登半島地震。これらはごく最近の大きな出来事である。いずれも多くの人が犠牲になり、また住む場所も奪われるという悲惨を生んでいる。
こうした事態に、私たちはどう反応しているのだろうか。私を含め多くの人は、最初はニュースに驚き、どうなっているのかと思い、ニュースを流し続ける。そして、ふぅーん、そうなんだ、と一応の好奇心を納得させる。そしてそこでストップする。例えば、ガザ地区で大きな争いが起こったと知る。どうなっているのかと情報ソースから流れてくることを見て聞いて、へえーと思う。悲惨をもたらされていることを知って、大変だなあ、と思う。しかし、それ以上には進まない。例えば、なぜイスラエルがガザ地区に攻撃をしなければならないのかという疑問が頭を掠めるかもしれないが、きちんと問わないまま、玄関を開け、街に向かって歩き出す。
いや、問わない、知ろうとしないことが良い悪いという話をしたいわけではない。ただ、知ろうとしないという事実は、我々にとって何かを意味するとは思う。考えてみると、何かを問わない、知ろうとしないということは、そうした知覚や認知のアンテナが、これ以上あちらの世界に伸びないことを意味する。日常を「私の関心が及ぶ世界」とするなら、この境界が、私たち個人の中の「日常」とその外すなわち「非日常」を区分する線となるのではなかろうか。
ウクライナ・能登半島といった空間のみではなく、同じような境界は時間の中にも見出すことができる。私はここしばらく広島と被爆に関心があり、研究を続けている。2024年の現在、1945 年に起こった出来事について、「知りたい」ビームを発するという行為は、今日の広島にすむ人々、つまりかつての1945年と同じ空間に生きる人たちにとってすらも次第に困難なことになっていることに否応なく気付かされる。
私は、私の「知りたい」ビームが向かない、届かない世界が、いつも、どこかに拡がっていると感じている。言語矛盾になるが、私が知覚できる「日常」を超えて拡がる「非日常」に足を踏み入れたいといつも思っている。この日常と非日常を行き来する方法はないものか。私は、自分のことを、「日常」にはあまり関心がない人間だと思っているが、他方「非日常」から「日常」を眺めてみるとどう見えるのだろうかと、考えるだけでいつもゾクゾクしている。
私が知らない、かつて関心を持たなかった世界に「知りたい」ビームを照射するきっかけはどこにあるのか。私は、このゾクゾク感を生み出すきっかけを、多く書籍と格闘する中で得ている。皆さんは、自分の中の「あちらの世界」を知る「ゾクゾク感」、どのようにして得ておられるだろうか。
初出:野宮大志郎「「日常」の作られ方」『中央社会学』第33号、中央大学社会学会、2024年、212頁
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