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瓦礫の「街」の社会学(新原道信)
この10年ほど、各種の責務におわれ、年末年始もこころここにあらずで過ごしていたのですが、今年はひさしぶりに家族との時間を過ごす瞬間がありました。しかし、そのとき、胸に去来したのは、「こうしたかけがえのない日常を突然奪われたひとたちが、ウクライナ、ガザ、能登・・・・・・この地球上の至るところに出現し続けているのだ」という想いでした。
わたしは、都市や地域を専門とする社会学者ということになっていますが、そこでの「街」のイメージは、子どもの頃からずっと好きだった詩人・谷川俊太郎さんの「神田讃歌」のなかの「この街にかくされている ありとある思いの重さ」という一節です。
神田川のみならず東京は川の街ですが、関東大震災や東京大空襲では、その川が瓦礫と死体の山になりました。1901年生まれの母方の祖父は関東大震災の「生き残り」でしたが、わたしの母親は、1927年8月15日に東京で生まれ、1945年3月10日の東京大空襲の「生き残り」です。祖父や母は、「たまたま」死者の側に入らず、母はわたしを生んでくれました。「お嬢様」として育った母は、没落した戦後の苦労話を語ることはあっても、「3.10」のことをわたしに話したのはただ一度だけです。そのときの母は、かたわらにいるわたしにではなく、昼間なのに真っ暗な、煤けた虚空にむかって言葉を発していたように感じました。
・・・・・・1945年1月29日の日曜日、12機のB29の編隊が浅草河童橋通りの自宅にむかってまっすぐ飛んできた。これはまずいと思って、自宅の地下にコンクリートで作られた倉庫にもぐりこんでいると地震のような衝撃がやって来て、倉庫の蓋を開けてみると昼間だというのに、空は真っ茶色になっていた。すぐ近くの民家に250キロ爆弾が直撃して大きな穴がぽっかりと空き、その家はもちろん隣の家の家族も一瞬にして破片も遺さず飛び散った。自宅の屋根には畳がのっかっていた。そして3月9日の真夜中に大空襲が始まった。一家ちりぢりばらばらとなり、火の手があがっていない方角へと逃げまどった。松屋デパートの地下にたどり着くと、そこにはすでにたくさんの被災者達が逃げ込んできていて、空気は悪かった。どうせ死ぬのだろうと思っていたので、直劇弾で肉片になって飛び散るのか、黒こげになるのか、蒸し焼きになるのか、おそらく窒息死して蒸し焼きになる確率が一番高いんだろうなあなどと考えていた。せめて、自分の死体に家族が気付いてくれればうれしいなあと思っていた。江東区のほうまで同級生の消息を訪ねにいった時に一面の焼け野原を目撃した。電信柱に首がぶらさがっていたとか、小学校のプールに押し寿司のようにひとがおりかさなって死んでいたとかの話は聞いていたので、死ぬことには妙に鈍感になっていた。夜が明けて運良く生きながらえて、3月10日は試験期間だからと思って、焼け野原を歩き、煤だらけ灰だらけになって、麹町三番町の学校にたどり着いた。しかし学校は焼けてしまっていて誰もいないのを知り、はじめて涙がこぼれた。母校の小学校に集まり家族と再会したが、家はすでになく、食べ物もないので、運良く焼け残った府立第一高女に通っていた次女が、学校のロッカーに隠していた非常用の米二合を持ち出し、道ばたで拾った人参を千切りにして、焼け残った知人の家の台所を借りて調理をして、家族みなで食べた。玉音放送は、焼け出されて引き揚げた伊豆の家で聞いた・・・・・・。
わたしの母が、生まれ育った故郷の「街」を、夫(特攻隊の「生き残り」だったわたしの父)に付き添われて訪れたのは、「あの日の空襲」から、60年以上も後のことでした。失われた「その街」を想いつつ、ふれないよう、考えないよう、とまどい、逡巡し、痛切のなか、どうにかやっと、それでも生きているうちに一度「還ろう」と思い立ったときには、「あの日」をかろうじて生きのびた同級生たちの、すでに多くが亡くなっていました。
わたしは、母の「ありとある思いの重さ」を“すくい(掬い/救い)とり、くみとる(scoop up/out, scavare, salvare, comprendere)”ことをしていただろうか。「その街(the city, the street, the alley, the passage, the square, the townscape)」の意味を識ろうとしていたのだろうか。とりわけ、「3.11」以降、そしてウクライナやガザの「街」が瓦礫と死体に満たされているいま、痛い想いとともに、ふりかえっています。
さきほどの谷川俊太郎さんの詩は、「その街で靴を買ったことがあって その靴でサン・フランシスコの坂を上がった その街で栗の菓子を食べたことがあって その香りが秋のくるたびによみがえる」ということばで始まっています。母もまた、「その街」で「よみがえる」はずの日常の徹底的な喪失(thorough lost)を体験したのだと想
います。
いま私たちは、いながらにして“異郷/異教/異境”となりゆくことが、遠い話、過去の話ではなくなってしまう社会を生きています。「その街」の“考故学(perdutologia, caring for the lost)”――喪失の“痛み/傷み/悼みとともにあるひと(homines patientes)”の“社会的痛苦/痛み(doloris ex societas/patientiae, pain on society/patience)”を引き受け探求する学問、「その街」の「ありとある思いの重さ」を“すくい(掬い/救い)とり、くみとる(scoop up/out, scavare, salvare, comprendere)”ことが“ミッション(責務、使命、お役目: missione)”なのだと想っています。
みなさんと「その街」の無事を祈りつつ。
初出:新原道信「瓦礫の「街」の社会学」『中央社会学』第33号、中央大学社会学会、2024年、210-211頁
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