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記事2021.05.31

日々の営みから生まれる言葉 (新原 道信)

初出:『中央社会学・社会情報学』(中央大学社会学・社会情報学会 2017年3月)「社会の読み方」


日々の営みから生まれる言葉 新原道信


 折々の言葉として、学生のみなさんにむけて言葉を発してきた。時間もなく、余裕もなく、配慮も十分ではないものとして。しかし、せめて、「借り物」の言葉とはならないようにという想いとともに。以下の言葉は、ゼミや講義の場を“ともに(共に/伴って/友として)” してくれた若いひとたちとのデイリーワークの「間」で生まれた「言の葉(コトの端々)」です。


2016年4月23日 “多重/多層/多面”の歴史性について 

みなさんへ ひとつの土地について識るためには、“多重/多層/多面”の歴史性を理解する必要があります。ゼミで学ぶフィールドワークは、大学の外に出て野外調査をするという意味のみではありません。ひとであれ、相手が本であれ、ネット上のデータであれ、人であれ、土地であれ、悉皆調査(全数調査)のつもりで、足でかせぎ、「数」を数えていく。考察の基礎となるデータを自分でつくっていく日々の営み(デイリーワーク)です。この姿勢をある程度つづけていくと洞察力が身につき、“出会い”の機会がましていきます。


2016年7月31日 “舞台裏”について

みなさんへ どうにか夏休みに入り、生活を組み立て直していることと思います。夏の合宿は「自動的」には成り立ちません。夏休みにもかかわらず、“舞台裏”では合宿の準備をすすめてくれているひとたちがいます。デイリーライフにおいては、“舞台裏”で誰が支えてくれているのかを意識するようにしてください。そのうえで、これからみなさんが論文を書くとき、対外的に報告をするときに気をつけてほしいことがあります。それは、自分の人生そのものをトータルに表現し得るものとして書くということです。もちろん文体や構成など“舞台”のうえにのせるものは、当面の戦いにむけて「戦闘力」を持つものでないといけません。しかしその“舞台裏”には、自分や自分とかかわったひとたちの生に対するリアリティがあるもののみが、ひとをうごかしてくれるはずです。みなさんは、“舞台裏”をつくりつつ、“舞台”の上にのせるものを整えていってください。夏休みは、とりわけ“舞台裏”を充実させる時期だと思います。


2016年8月21日 大山団地夏祭りに参加してくださったみなさんへ

みなさんへ 昨日は蒸し暑く、そして断続的に降り続く雨の中、大山団地の夏祭りに20名ものみなさんが参加いただき本当にありがとうございました。昨日は、「ハレ」の日でしたが、有志のみなさんが参加してくれた盆踊りの練習(5名参加)、スタッフ会議(12名)、そして本日の後片付けに反省会(13名)と、“舞台”の上のみならず“舞台裏”にも“居合わせる”体験をしてもらえたことを何よりも嬉しくありがたく思います。なぜなら、ここで「汗かき仕事」をしたみなさんは、“生身の社会”が創られていく現場を体感するチャンスを自ら手にしたからです。つまりは、この“舞台裏”の活動のさらに背後には、日常的な自治会活動、そして日々の忙しい暮らしのなかで、ほんのすこしだけ隣りの人たちのことや、街の様子を気にかけ、「一汗流す」ことをあたりまえのようにしてきたひとたちの、「ハレ」以外の「ケ」の時間での積み重ねがあるという“身実(みずから身体をはって証立てる真実)”を体感していたことになります。

 「つくる(作る/造る/創る)」ということで言えば、神輿も山車も、現会長や自治会役員のみなさんの「作品」でした。そしてまた、今年は雨のため使うことがかなわなかった「盆踊りのための特設舞台も会長の作品よ」(事務局のSさん談)ということでした。「作品」は、こうした具体的にモノだけではありません。反省会というかたちでの慰労会のなかで出された意見から学び、時間をかけて蓄積してきた経験、「予想外の出来事」に対処するための智恵もまた、ひとつの「作品」です。さらにいえば、悪天候にもかかわらず、昨年とほぼ同じ顔ぶれの子どもたちが参集してきて、きっと日頃だったら見向きもしないかもしれないお菓子やアイス、景品「めざして」神輿や山車をかつぎ、「街」を練り歩く子どもたち(神輿のまわりをウロウロしているけどあまり「役」にはたたない(?)男の子たち、その「不真面目さ」を叱る女の子たち)、若々しいかけ声のひびきに誘われるように各棟から飛び出してきて拍手をする老年の方たち、休憩所で粛々と担ぎ手たちの世話をするお母さんたち、神輿や山車の進路を確保し交通整理をする安全委員会の方たち、自治会役員というわけでもないのに毎年同じアニメTシャツでいっしょに「街」を闊歩する「常連さん」など――様々な人たちの生命力・潜在力が立ち現れる瞬間こそが、この「街」の自治の「作品」なのだということも出来ます。まわりを気にかけ、骨身を惜しまずうごき、そしてちょっとだけ自分も楽しむという気風が、場の中心的な流れとなっているときにしか成立し得ない「作品」です。まったく同じメンバーでも、「自分のこと」ばかりを考える疎遠な関係となることもあり得ます。「特別な人たち」だから成り立っている場ではありません。様々な人たちの少しだけの努力――〈よりゆっくりと、やわらかく、深く、耳をすましてきき、勇気をもって、たすけあう〉営みによって、場が創られ続けているという点では、大山団地もみなさんのゼミも同じ構造、同じ困難、同じ可能性を持っています。これは実は、“生身の社会”そのものが持つ特質でもあります。みなさんは、ひとつの「街」のつくられ方を、ささやかながらも、自らもつくり手、支え手の側からみせてもらうための「汗かき」をしたことになります。


2016年12月7日 卒論・ゼミ論仮提出版へのコメントです 

みなさんへ 奮闘をありがとうございます。卒論組につづいて、ゼミ論組・仮提出版へのコメントを送ります。ゼミ論組のみなさんは、卒論と同じペース・形式でことをすすめた場合、最後の段階での自分は何が出来るか/出来ないのかをすべて「吐き出す」ことをおすすめします。失敗をかちとることもまた成功だと思ってplaying&challengingにやってください! よろしくお願いします。


この記事を書いた人
新原 道信
Michinobu Niihara

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