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記事2021.05.28

厳しい優しさで――学生のみなさんへの捧げ物(オマージュ)として (新原 道信)

(写真:アフリカからの難民が押し寄せるイタリア最南端の島ランペドゥーザの地図(2018年3月6日撮影))



初出:『中央社会学・社会情報学』(中央大学社会学・社会情報学会 2018年3月)「社会の読み方」



厳しい優しさで――学生のみなさんへの捧げ物(オマージュ)として 新原道信



Apres moi le deluge! わが亡きあとに洪水よきたれ!……マルクスは、「資本論」第一部(1巻)第三篇第八章第五節でこの言葉を引用した。宮廷の奢侈が財政破滅を招くと忠告されたときに、フランスのルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人がノアの洪水伝説にちなんで言った言葉とされている。


君の息子が炎に包まれていたら、君は彼を助け出す事だろう……もし障碍物があったら、肩で体当たりをするために君は君の肩を売り飛ばすだろう。君は君の行為そのもののうちに宿っているのだ。君の行為、それが君なのだ……君は自分を身代わりにする……君というものの意味がまばゆいほど現れてくるのだ。それは君の義務であり、君の憎しみであり、君の愛であり、君の誠実さであり、君の発明だ……人間というものはさまざまな絆の結節点にすぎない、人間にとっては絆だけが重要なのだ」(アントワーヌ ド・サン=テグジュペリ (著), Antoine de Saint‐Exupéry , 山崎庸一郎訳、『戦う操縦士』みすず書房のメルロポンティが『知覚の現象学』に引用した箇所より)。


 不確定かつ困難な時代を生きるみなさんに、いま伝えたいことがあります。それは、志半ばでその生を終えた「先輩」たちから遺された“臨場・臨床の智”、すなわち、社会のなかで、人と人の間で、生身ひとつで奮闘することによってのみやって来る、社会への理解と人へのふれかたの“智慧”です。以下は、2017年最後のゼミでした話です(記録してくれたゼミ生に感謝しています)。いっしょに学び卒論を書き、大学を卒業していった/していくすべての人たちへのオマージュ(捧げ物)となりましたら幸いです。


 かつてK.マルクスは、近代資本主義の精神が「Après moi le déluge! わが亡きあとに洪水よきたれ!」であると言いました。しかしその一方で、サン=テグジュペリが言うように、私たちは、「さまざまな絆の結節点にすぎない」という人間の“生存の在り方(ways of being)”に縛られ/支えられてもいます。「社会の縮図」であるゼミナールにおいても、「自己実現をしていく」こと/余裕のないときにも他者を想い惜しみなく与えることとのジレンマが存在し続けました。今年のメンバーもまた、学生の多目的利用施設であるCスクウェアに集まり、いっしょに準備をすすめてきました。他の人たちの論文提出を助けるため走り回ってくれた人たちがいました。他方でこの「人間の里山/網の目」を創るなかで、「フリーライド(ただのり)」「危機感や他者認識のなさ」といった問題が生じても来ました。

 〈卒業(に値する)論文を書く〉ということは、人間としてどう生きてきて/これからどう生きるのかの“かまえ”が「審問」される機会です。すぐれた読み手は、論文の「完成度」とは別に、まさにその“かまえ”を文章から読み取ります。「文畢竟人也(文章は人そのものを体現する)」だからです。自分が試されるせっかくの機会をいいかげんにやり過ごすのは、本当にもったいないと思います。きちんと奮闘すれば、土壇場の自分がどのようになるのか、いかに至らぬところがあるのかを“識る”ことが出来ます。たしかにこれは、ひとつの「敗北」です。しかしこの「敗北」は、かちとられたものです。「敗北を抱きしめつつ(embracing defeat)」 、“慎み深く、思慮深く、自らの限界を識ること(decency)”ができるかどうかで、人生の道行きが「ちがって」きます。たとえば、パスカルは、「わたしは、呻きつつ求める人のみを、是認する」(パスカル『パンセ』)と、ゲーテは、「人間は努力する限り迷うものだ」(ゲーテ『ファウスト』)と言っています。

 僕は、皆さんに、「卒業論文は自分の背骨になるようなものを書いてください」とずっと言ってきました。元ゼミ生のFnくんが亡くなってからは、「できるだけ長く生きて、一定の年齢になって準備ができたら、 自分ではない誰かに、ちゃんと惜しみなく与えるような後半生を生きてください」と付け加えるようになりました。Fnくんは、研究者志望の学生でしたが、「自分は研究者としてやっていくのには限界がある」と自ら大学院に行くことを断念し、福祉の仕事に就こうと思い立ち実行しました。ソーシャルワーカーになってすぐ、非常に難しい病気にかかって、「人生計画」は大きく揺らぎました。困難な闘病生活のなかで信じがたいほどの奮闘をして、何度も奇跡的に生還しました。そして、30代半ばでその命を閉じました。

 最初は、手足の動きに異変を感じて、このまま筋無力症みたいになっていくのかという心配をしました。次に、悪性腫瘍であることがわかり、大きな手術をして、手術後も抗ガン剤を投与しないといけない、あなたの子どもは残せないと言われました。それから、また再発・手術・治療という厳しく生々しい現実に「臨み」続けねばなりませんでした。一つ二つと自分の「望み」がそのままのかたちでは果たせぬということ、限界を知らされ、何を諦めなきゃいけないのかということを真剣に考え、選びなおしながらいのちをつないでいこうとしました。もともと彼は、優秀で、人望もあって、リーダーで、バスケットボールやサーフィンとスポーツ万能な人でした。しかし、人間としての本当の「凄み」は、“Sinking with Style(優雅に品よく没落する/「いき」に衰えていく)”ことを身体をはって証立て、“自らの社会的病とともにある社会の医者”で在り続けたことです。彼の“思行(思い、志し、言葉にして、考えると同時に身体を動かしてみるという投企)”によって救われた病友は数えきれません。

 彼と親しい何人かの人との間でメーリングリストを作って、彼を励ましていました。あるとき、“想いを/あきらめない気持ちを持ち続ける力(power of idea)”というタイトルでメールを送りました。この言葉は、彼の心身の奥底に残ったようで、その後ずっと、私たちは、同じタイトルでやりとりを続けました。最期の時期に、京都の大学病院にいる彼の見舞いに行ったのは金曜日でした。月曜の夜に電話がかかってきました。妻に頼んでホスピスに転院できないかという相談をしていたので、「ホスピスに転院できたの」と聞くと、「いえ、京都大学病院にまだいます。先生、もうこれで最期かもしれません。これまでありがとうございました」と。僕もただ、「ありがとう」という他ありませんでした。他の言葉を選べなったのです。おたがい、いつまでも、「ありがとう、ありがとう」と言って電話を終えました。次の日、彼は、亡くなりました。大切な人たちにあいさつをしたいからといって、モルヒネ(鎮痛剤)を使用せず、激痛に耐えながら電話をしたのだと後から聞きました。

 彼は、一つ二つと自分の生の限界という生々しい現実に臨み、希望の範囲をどんどん限定していかざるを得ないという条件下で、希望の境界線を異なるかたちで引き直し続け、最期の瞬間まで、慎み深く、思慮深く、他者に感謝の気持ちを届け、志半ばでこの世界を旅立ちました。それで、私たちは、彼に背中を押されて、『うごきの場に居合わせる』という本をつくり、彼のことを追悼し、ご家族にその本を謹呈しました。そうしましたら、お母さんは本を読んでくださっただけでなく、彼が書いた卒業論文を何度も何度も読み返しているとおっしゃったのです。

 みなさんが大学でレポートやゼミ論文を書くことと、卒業論文を書くことには本当に大きな隔たりがあると思います。その場を「やりすごして」大学を出ていく人もたくさんいますが、卒業論文を書くということが人生の背骨となって、しかも若くして亡くなったりしても、母親がその論文を読み続ける人もいた、ということを記憶にとどめてもらえたらと切に思います。Fnくんが卒業論文を書くときに、自分が死ぬと思って書いていたわけではないでしょう。ただ、Fnくんは、それぐらいの重みを感じて卒論を書き、またそう生きていったのだと思っています。

 Fnくんが、ぜひとも創ろうとした場所は、本気で怒ったり、励ましたり、厳しい優しさをもった、本当の意味での寛容の世界だったと思います。みなさんが今こうして生きているということは、みなさんの「ご先祖様」が厳しい優しさをもって生き延びてきて、その結果いま皆さんがここにいるということです。それをただ食いつぶすのでなく、次につないでいくという、ごく普通のことをやっていってください。万が一、若くして亡くなるようなことがあっても、みなさんのご家族が卒業論文を何度も読み返すようなものを遺してください。厳しい優しさをもって、「次などない」というときにどう思い、志し、考え、うごくのかを考える機会として、卒業論文を書き、人に何かを遺していってもらいたいと思っています。

(2017年12月19日のゼミにて 新原道信)


この記事を書いた人
新原 道信
Michinobu Niihara

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