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記事2021.05.24

パンデミックを生きるために (新原 道信)

(図:惑星社会のフィールドワーク(これまでフィールドワークで訪れ/通い/暮らした土地))



初出:『中央社会学・社会情報学』(中央大学社会学・社会情報学会 2021年3月)「社会の読み方」


パンデミックを生きるために   


新原道信


私たちの日常生活は、社会的大事件のみならず個人の病・死も含めて、未発の事件で満たされている。未発の事件は、実は既にそれに先立つ客観的現実の中に存在していたのであって、ただ私たちが、「同時代のこと」「自らの足元」に対して選択的盲目を通していたにすぎない。

学問とは、特定の状況、とりわけ限界状況において力を発揮する臨床・臨場の智である。支配的なる「知」とは別の補助線をひき、対立の場の固定化を揺りうごかし、想定内の「問題解決」ではない新たな問いを発する。


 大学生の頃、冒頭の言葉がいつも頭にありました。「未発の事件」の“兆し”に気付き、たいへんなときに、少しは力を発揮する人間になれたらいいなと思っていました。それからずいぶんと時間が経ちましたが、この文章を書いている2021年1月現在、「新型コロナウイルス感染症(COVID-19, Coronavirus Disease 2019)」に直面し、オロオロ、どたばたしている自分に気付かされています。

  密集と移動が極大化したグローバル社会の帰結として、歴史上、体験したことのない速度での「パンデミック(語源的には、ギリシア語のpandemos、つまりは、すべての[pan]民衆[demos]が直面する事態)」が起こっています。すでに起こってしまったこの「事件」を、私たちは、「人間(動物)/植物/ウイルス/物質の生物地球化学的な循環のなかでの社会(Biogeochemical cycle, Material/ Substance Circulation, Ecosystemのなかのsocietas)」という観点から捉える必要があります。

 微細な構造体であるウイルスは、人間も含めたすべての生物と共存し続けてきました。近代以降の社会が獲得した開発の力は、惑星の隅々まで及んでいき、迅速かつ大量のヒトやモノの移動が常態化し、いままでにはなかったウイルスと人間が遭遇しました。SARS、MERS、エボラ出血熱などの感染症、そして「新型インフルエンザ」や「新型コロナウイルス」などの「パンデミック」、これらの頻発は、社会の根本的なモビリティの増大と変化によって、必然的に生起し勃発した「事件」なのだと思います。

 仮想現実により対面を減ずることに成功した地球規模の情報社会において、この「新型」の病は、密集して対面するヒトからヒトへの感染によって急速に拡大しました。私たちは、インターネット上でかろうじて「自分」をつなぎとめ、不安の矛先を異質な他者にぶつけるかたちで、差別と偏見が剥き出しになっています。

 いま私たちは、自らの社会がつくり出した“見知らぬ明日(unfathomed future)”を生きています。「チェルノブイリ」や「3.11」がそうであったように、「コロナウイルス」を「きっかけ(trigger)」として、すでに在った“惑星社会の複合的問題(the multiple problems of the planetary society)”が顕在化しました。問題は、「解決」という「型」に馴染むことのないジレンマ、アポリアとして、ずっと私たちに突きつけられていきます。思えば、「明日」はわからないというのはあたりまえのことです。しかし、どこかで私たちは、「想定」可能な「明日」があり、自分ではない誰かが「問題を解決」する社会を前提としていて、「想定外」が顕在化したとき、あまりにも無力な自分たちに気付かされています。

 このような、あまり見たくもない、考えたくもない、しかし、眼前に迫ってきた、根絶・排除することは出来ない根本問題(fundamental problem)との辛抱強いつきあい方、様々な「カタストロフ」が繰り返し多発する社会を生きていくためにはどうしたらよいのでしょうか。何を?どのように? このようなときこそ、自分の横にいる生身のひとたちの声やまなざし、そして自分自身の身心の声を大切に、危機の瞬間に突然よみがえる過去の記憶、想起されることがら、自分の内側からわきあがってくるものを大切にしてください。たとえば、私の場合でしたら、大学生の頃に何度も読みかえしていた医師・細川宏先生の詩が、よみがえってきます:

「病者(ペイシェント) --Patients must be patient--(病者とは堪え忍ぶ者の謂いである)」

病者は 辛抱づよく堪え忍んでいる 何に耐え 何を忍ぶというのか 

その身を襲う病苦の 激しくかつ執拗な攻撃を じっと堪え忍ぶのだ

身を守るべきいっぺんの盾もなく 敵を反撃すべき一握りの武器もなく

全身を敵の攻撃にさらしつつ ただ一基のベッドに身を伏せて

ひたすら時の経過を待つのだ ・・・・・・  (細川宏『詩集 病者・花』現代社、1977年、pp.8-9)

 

 癌と向き合い、志半ばで夭逝した細川先生の言葉に、大学に入ってすぐの頃、偶然出会いました。それからずっと、手の届く場所にこの詩集をおいて、家族や友人、学生の病と死に苦しんだとき、繰り返し、細川先生の見ていた情景はいかなるものかと、想いを馳せてきました。自分の身を切るような体験をするなかで、少しずつ本当の意味で、出会うべき言葉として、出会っていったのだと思います。今回もまた、そのような“根本的瞬間(Grundmoment)”が来たということなのでしょう。フェイクニュースも含めた膨大な情報のノイズに包囲されるなかで、少しだけ立ち止まり、耳をすませば、内奥からのかぼそい声は、遙かな近さ、確かな深さとともに、こころに届けられます。よりゆっくりと、やわらかく、深く、耳をすましてきき、勇気をもって、たすけあうかたちで、“端/果て”から、“低きより(humilityをもって、humbleに、高みから裁くのでなく、地上から、廃墟から)”という在り方(ways of being)で、身心をうごかすしかないと思います。どこかにある「答え」を探すのでなく、いままで学んできた智を総動員して、「答えなき問い」に応えてくれることを願っています。

 みなさんが、盟友アルベルト・メルッチの詩のなかにあるような「出会うべき言葉」に出会えますことを:

足跡を探し求めよう アスファルトの道に 

夜の闇を照らす 未踏の真実の跡を  「それでもまた夜は照らし出される」


私たちは このただひとつの 地へと向かう 用心深き使者だ

出会うべき 言葉だけを持っている

「兄弟であれば」

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¹イタリアの社会学者アルベルト・メルッチは2001年に白血病で亡くなる直前まで、詩を書き遺した。2002年ミラノの追悼シンポジウムでは、メルッチの死後に出版された詩集『熱気球(Mongolfiere)』からこの二つの作品が朗読された。


この記事を書いた人
新原 道信
Michinobu Niihara

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