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「みんなが参加できないなら,やるべきでない」――退行的平等主義 (矢野 善郎)
初出:『中央社会学・社会情報学』(中央大学社会学・社会情報学会 2021年3月)「社会の読み方」
「みんなが参加できないなら,やるべきでない」――退行的平等主義
矢野 善郎
2020年は,新型コロナ・ヴィルスのため,小・中・高・大,さまざまな学校行事が中止になった。全国には,多くのスポーツ大会や文化系イベントへの出場・参加を目指していた生徒や学生たちがいたはずで,きっと2020年は多くの悔し涙が流れたのではないか。私は,高校生の英語イベントとしては最大である,全国高校生英語ディベート大会の運営に15年ほど関わっている。その全国大会も,安全な開催の見通しが立たないということで初夏に一旦中止の決定を行った。高校の英語ディベートも最近盛んで,例年350校以上,数千人の高校生が,年末の全国大会を目標に研鑽に励んでいる。やはりコロナに負けてはならない,ディベートならオンラインでなんとかできるのではないか――中止の決定のあと,有志が立ち上がり,実験を重ね,全国大会をオンライン開催する流れができた。
問題は,各都道府県の予選である。各地ではコロナ対応もあり,予選開催にすっかり消極的になっている先生方も多い。私自身,ほうぼうで依頼を試みた。予選開催を渋る地域の先生方の理由付けは主に二つだった。一つは,オンライン開催についての技術的な不安である。これは当然な不安とも言える。しかし開催のマニュアルや講習などを中央で整備したことで,そうした不安は解消していった。
ところが幾つかの地域は,もう一つの理由を盾に開催を断り続けた。オンライン関係の不備などの理由で,参加できる学校と,参加できない学校ができる。オンライン開催だと,参加できない学校がある以上,今年は開催を見送りたい。
こうした選択,皆さんは納得いくだろうか。私自身の思考法からすると,この選択は(失礼ながら)非合理の極みに見える。予選開催しないならば,参加を希望していた全員が何も得られない(そして,たぶん涙を流す)。逆に開催したならば,少なくとも参加者には多大なる学びと希望がもたらされる。開催をするなら,オンライン設備などを支援し,参加不可能な状況を減らす努力をすべきなのは言うまでもない。ただ,どこまで行っても参加不可能な生徒がいることはありえる。しかし,それが全ての参加可能者を犠牲にすべき理由になるのだろうか。参加した人に利益があり,参加しない人にはそれ以上の損がないのなら,機会を設けることが全体としてとるべき選択ではないか。私なら,そう考えてしまう。
だが世間(少なくとも日本の高校や大学)には違う思考をする人もいる。みんなが参加できないなら,全体をやめるべきだ,こうした論法にでくわしたことは,コロナ前にもある。改革案を採用しても誰も損はしないが,参加できない自分たちには直接利益はない,かといって自分たち以外の誰かが利益にあずかることは許せない。こうした狭い了見や嫉妬心から,「みんなが参加できないなら」論法を使って,改革などの足を引っ張ろうとする連中がいることは,よく知っている。
しかし今回遭遇したのは,こうした連中とも違って,どうやら「みんなが参加できないなら,やるべきでない」ということを,いわば原理として信じこんでいる人たちである。この原理は,ある意味で平等を大事にしているので,平等主義の亜種とは言える。平等主義というと機会平等/結果平等がよく問題になるが,この場合は,全体の機会を減らしてまで機会を平等にすべきという原理と言える。機会平等主義というと,機会から不当に排除されている人たちを支援し引き上げる,前進的なprogressive機会平等主義のことを想像するかもしれない――こちらには私もシンパシーを感じる。ただし,今回遭遇した考え方は,こうした機会平等主義とはかなり違う。機会から排除される人たちがいるから,機会を平等に奪う。機会を狭めることで機会平等・結果平等を達成すべき。こうした原理を,(もしかしたら既に他の名前がついているかもしれないが)「退行的平等主義regressive egalitarianism」と呼ぶのはどうだろうか。
今回学んだことは,少なくとも学校の先生には,こうした退行的平等主義の信奉者が一定数いるということだ。しかし言うまでもなく,こうした原理とは無縁で,かつ献身的な教員も実に多い。ふたを開けてみると,全国の先生方の懸命の努力により,30もの地域で予選が開かれた。例年の7割位とはいえ,のべ1000人を優に超える高校生たちが,全国各地でオンライン・ディベートに参加した。その結果,年末のオンライン全国大会も大成功に終わった。
ただ退行的平等主義が勝利した地域もあった。これは日本の公立の学校の一部で育まれる,独特な教員の生活態度の一部と観るべきなのだろうか。それとも「みんなが参加できないなら,みんなで我慢すべき」というのは,伝統的なムラの精神の根強い名残なのだろうか。それとも…。いやな仮説だけが頭をもたげる。
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